|
常磐高速に乗り友部SAでそばいなりをゲット!
モグモグしながら走る。
う~ん、、このように、飲食しながらの運転はOKで、
携帯で話しながらの運転はダメなのはなぜだろう??
考えると眠れなくなっちゃう。 |
|
スカイツリー |
|
なんだ? |
|
UFO? |
|
飛行船でした・・。 |
|
茅ヶ崎に着き用事を済ます。
その後、お母様を乗せドライブに出発!
相変わらず行先は決まっていない・・。
とりあえず伊豆半島を走る。 |
|
熱海城 |
|
富士山 |
|
目的地を修善寺に決め、熱海から山越え! |
|
修善寺温泉 1.2km |
|
到着! |
|
この角を曲がると、、、 |
|
修禅寺 |
|
修善寺ではなく修禅寺 |
|
室町後期頃に、現在のように地名を修善寺、寺名を修禅寺、と区別するようになったそうだ |
|
修禅寺の手水場
「大師の湯」 |
|
御手水ー桂谷霊泉 大師の湯(温泉) |
|
修善寺縁起
この寺の歴史は宗教的に、真言、臨済、曹洞の三つに区分することができます。
創立は大同二年(807)で弘法大師とその弟子によって開かれ真言宗の寺で、当時はこの地一帯に密教形式の堂宇が建ち並び東国真言宗の拠点ともなった模様です。
この時代の末期とも言うべき元久元年(1204)源頼家がこの地で殺害されています。
本尊の大日如来像は、その母北条政子が頼家公の菩提のため、七回忌に当たる承元四年(1210)に実慶に造らせたことが、解体修理の結果わかりました。
その後,寛元四年(1246)宋から渡来した蘭渓道隆禅師(鎌倉建長寺開山)が一時止住されたにが縁で宋の皇帝から勅額が下るほど修善寺の名が広がり、約二百四十年ほど臨済宗として栄えました。
次は今の曹洞宗でありますが、いつの時代でも栄枯盛衰はつきもの、北条早雲が韮山城主になるや、戦禍によって見る影も無いほどに荒廃したこの寺の再興のため、自分の叔父に当たる隆渓繁紹禅師を住職として招き、広大な土地を寺領として寄進されたので復興することができました。禅師が入山されたのが延徳元年(1489)ですから既に五百年を過ぎて今日に至っています。
(注)昔は住した僧の宗旨で寺の宗旨が変わりました。
大祭は毎年4月と8月、共に20日21日の両日(弘法忌)
正式寺名 福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ) |
|
修禅寺から虎渓橋と桂川を望む |
|
伊豆修善寺温泉
恋の橋めぐり虎渓橋(こけいばし) 別名(あこがれ橋)
修善寺には縁結びの橋の言い伝えがあります。
桂川にかかる橋に願いをかけながら渡ると成就するそうです。 |
|
独鈷の湯
学生時代、何度もココを訪れ、深夜に入浴したのはいい思い出。 |
|
源頼家の墓がある |
|
指月殿
源頼家の墓 |
|
指月殿(しげつでん)
この地で非業の死を遂げた鎌倉幕府二代将軍頼家の冥福を祈り、母北条政子が建立したもので、伊豆最古の木造建築といわれている。
指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立文字を解く言葉である。建立の際、政子が寄進した宋版大蔵経は、大半が散失し僅か8巻しか残っていない。そのうち「放光般若波羅蜜多経」の第23巻が静岡県指定文化財となっている。
本尊の釈迦如来坐像は、寄木造りで高さは203センチ、持ち物のないはずの釈迦像が右手に蓮の花を持っているのが特徴である。「指月殿」の扁額の実物は、宋の名僧一寧一山の書といわれ、修善寺本堂に安置されている。 |
|
北条政子が建てた「指月殿」 |
|
指月殿内の釈迦如来座像 |
|
現在地 |
|
源頼家の墓
正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きく揺れ動く時流と、醜い駆け引きに終始する政争に破れ、在位わずか6年でこの修善寺に流され元久元年(1204年)祖父北条時政の手で入浴中に暗殺された(享年23歳)。
「修禅寺物語」ではこうした政治的背景の上に若き将軍頼家と、面作り師夜叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものである。
この碑は、元禄16年(1704年)頼家の500回忌にあたって、時の修禅寺住職伐山智船和尚が建てた供養塔であり、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔である。 |
|
源頼家の墓 |
|
この碑は、元禄16年(1704年)頼家の500回忌にあたって、時の修禅寺住職伐山智船和尚が建てた供養塔であり、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔である。 |
|
おしゃぶり婆さんの像 350m |
|
行ってみるか! |
|
けっこうな山道 |
|
岩谷観音とおしゃぶり婆さん
この鹿山のことを正式には「塔の峰」と呼び、昔は「塔の峰の観音さん」または岩を削って石仏を安置してあることから「岩谷観音」とも呼んでいました。
この下の谷のことを「観音洞」と呼び、谷から直接登山するのが本来の参道だったようです。
正面は桂谷八十八か所、四十番の石碑。
右の祠には「おしゃぶり婆さん」と呼ばれる子育ての神様も祀られています。赤子が口にするオシャブリが語源といわれ、左の石仏は母乳に恵まれるよう豊かな胸をしています。
昭和の初期まで、この山中にも老舗旅館の茶屋があって、鹿を飼ったり、湯治客が自然散策に訪れる私設公園でした。
中腹には大弓と呼ばれる矢場の広場があり、土地の子供が逗留中の幼い宮様と相撲に興じたり、まだ珍しかった自転車の競走をしたりしました。 |
|
あの中におしゃぶり婆さんがいる。 |
|
源義経像
義経は、源氏初代将軍頼朝や、修善寺で自害した範頼の弟に当り この鹿山のふもとに墓のある二代将軍頼家の叔父にあたります。
幼名が牛若丸であり、京都の鞍馬山で育ち、五條大橋での弁慶との出会いなどは有名な話ですが、後に蒙古へ渡ってジンギスカンになったという説もあります。
この獅子にまたがった像の胸には源氏の紋所ささリンドウが刻まれており、義経ともジンギスカン像とも云われます。
大正末期、芸術を愛好した菊屋旅館の先々代野田修治の依頼で、修善寺温泉へ滞在していた彫刻家によって、天城山中から運ばれた軽石へ彫られました。 |
|
源義経像 |
|
桂谷八十八ヶ所 39番 安産薬師如来の石碑 |
|
山を下りてきた! |
|
独鈷の湯 |
|
せっかくだから浸かって行こう! |
|
パチリと、、、 |
|
こんな感じ |
|
独鈷の湯は
公衆浴場法にのっとった浴場ではありませんので
入浴できません。
伊豆市 |
|
風情のある旅館 |
|
次行ってみよう!! |
|
またまたやってきた沼津港 |
|
またまたやってきた魚河岸「丸天」 |
|
本日のおすすめ
まぐろ三昧定食
地魚刺身盛定食
生シラスぶっかけ丼
さんまにぎり寿し
カキフライ |
|
キンメの煮付けと |
|
刺身盛り |
|
マグロのテールステーキ |
|
お腹いっぱい!! |
|
ご馳走様でした! |
|
また来ます! |
沼津ICから東名に乗り、足柄SAでお風呂に入る。
その後、お母様を茅ヶ崎に送り届け、その足で速攻水戸に戻った。 |
|
おみやげ |