小田原城
2014.8.30(土)

用事があり奥様の実家、茅ヶ崎に行く。

スカイツリーは雲の中
帰りに小田原城に寄り道

15:50
銅門(あかがねもん)

銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、江戸時代のほぼ全期間を通してそびえていましたが、明治5年に解体されてしまいました。現在の銅門は昭和58年から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたものです。銅門の形式は、石垣による枡形、内仕切門、櫓門を組み合わせた枡形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されています。
住吉橋
銅門(あかがねもん)
しゃちほこ
天守閣へ通じる登城ルート上に設けられた、二の丸の表門。
扉の飾り金具に銅を使用していたことから、その呼び名がついたと言われている。
当時の工法により平成9年(1997)に復原。
櫓門の梁:マツ
柱・扉:ヒノキ
うん、立派だ。

銅(どう)と読まず「あかがね」と読むところも渋い。
天守閣が見えてきた。
小田原城歴史見聞館

時間が無いのでパス
ここを登る
小田原城案内図
小田原城と小田原合戦攻防図

天正18年(1590年)4月、関東最大勢力を誇る戦国大名小田原北条氏の本拠地「小田原城」は、全国統一を推し進める豊臣秀吉率いる諸大名の大軍に包囲される。

■中世最大規模の城、小田原城出現
五代当主:北条氏直は小田原城をはじめ諸城を強化し、総動員態勢を整える。小田原城に城下の町ごと囲む9kmに及ぶ長大な大外郭を構築し、決戦に備えていた。小田原城に主力を投入し、さらに領内100箇所に及ぶ支城の防備を固め防衛態勢を整えた。

■小田原城を包囲する戦国の英雄たち
豊臣方の軍勢は水陸合わせて22万。徳川家康を先鋒とする秀吉本隊は東海道、前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国から侵攻、長宗我部元親・九鬼嘉隆ら水軍は海上封鎖。織田信雄、蒲生氏郷、羽柴秀次、宇喜多秀家、池田輝政、堀秀政など名だたる武将が布陣。中世最大規模を誇る小田原城には6万の人々が籠城し、これに迎え撃つ。3ヶ月に及ぶ攻防戦を展開する。

■秀吉、石垣山一夜城を築城
長期戦で臨む秀吉は、壮大な石垣山一夜城を築き、本営を早雲寺から移動。淀君や参陣諸将の女房を召し寄せ、千利休や芸能者を呼び長陣の労を慰めた。

■北条の降伏
北条は各地の諸城にこもって防戦し、反撃に転じる作戦であったが、主力の小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され、次第に孤立。同年7月、北条氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引換えに、籠城した一族家臣領民の助命を願い出る。
秀吉は氏直の父(四代当主)氏政とその弟である氏照らに切腹を命ずる。氏直には高野山追放を命じ、小田原北条氏は滅亡。

■そして戦国時代は終わる
この合戦で伊達政宗ら東北の諸将も秀吉に臣従。この結果、天下統一が達成され、北条氏の滅亡と共に戦国時代も終わりを告げた。
大手筋登城順路
本丸東堀跡

江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいました。この絵図によると、堀は二の丸掘とつながる水掘となっています。発掘調査によってこの本丸東掘の位置が確認され、最も幅があるところでは20m以上もあることが分かりました。そこで、植木と盛り土により堀の形を表現し、整備しました。この堀を渡るために架けられていたのが常盤木橋で、水鳥の池は掘の名残と言えます。
常盤木橋
小田原城常盤木門

本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていました。
古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡り櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。
現在の常盤木門は、市制30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に復興したもので、昭和46年(1971)3月に完成しました。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。
常盤木門
常盤木門
常盤木門(ときわぎもん)

本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていた。
常盤木とは常緑樹の意味で、門のそばににあった松になぞらえて、この名がつけられたと言われている。
市制30周年事業として、昭和46年(1971)に再建された。
檻がある
さる〜
天守閣
ここにゾウとライオンの檻があったそうだ。

1999年にライオン死亡

ゾウのウメ子、2009年(平成21)9月17日に老衰で死亡との事
天守閣
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天守からの眺め

箱根方面
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真鶴・伊豆半島方面
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三浦半島方面


パノラマ
昭和の香り漂うお土産品
小田原城本丸

小田原城本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模をもち、その西端に天守閣、中央にはかつて本丸御殿が存在しました。本丸の周囲は、石垣と土塀がめぐらされており、東南と北側に門が設置され出入りが制限されていました。東南側の門は、本丸の正門にあたる常盤木門(ときわぎもん)、北側の門は、裏門にあたる鉄門(くろがねもん)とそれぞれ呼ばれています。

天守閣は、元禄16年(1703)の地震で、小田原城内の他の建物とともに倒壊・焼失しましたが、宝永3年(1706)に再建されました。以後、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1870)の廃城によって取り壊されました。現在の天守閣は、昭和35年(1960)に宝永年間の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に鉄筋コンクリート造で復興されたものです。

本丸御殿は、寛永11年(1633)に徳川家光が上洛に際して宿泊するために建設されたもので、元禄16年(1703)の地震により焼失して以来再建されませんでした。

元禄年間の姿を伝える宮内庁図には、本丸の南側に七本松と呼ばれた松が描かれていますが、現存する巨松(おおまつ)は、七本松の最後の一本で樹齢400年を越えるものです。

小田原城本丸一帯は、昭和34年(1959)、国史跡に指定され、責重な文化財として保護・保存されています。
御感(ぎょかん)の藤 樹名 ノダフジ(マメ科)

昭和32年3月30日 小田原市天然記念物指定
昭和59年12月   かながわの名木百選還定

この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩のもので、明治維新後、市内板橋の森元氏の手の渡り、明治十六年に市内唐人町(浜町)の西村氏が買い受けて育てられたと伝えられています。

大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸の滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散るかかってしまいました。

周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから、「御意の藤」と呼ばれるようになりました。
大正11年3月、小田原保勝会の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の名物として私たちの目を楽しませています。
樹齢は約200年と推定され、既に壮年期を過ぎた古株ですが、5月の開花期に藤棚いっぱいに花房が下がった様子は誠に壮観です。

小田原市教育委員会
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俺は右折し、「小田原西」から小田原厚木道路に乗る
東名−首都高−常磐道で渋滞も無く無事帰る。


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